「ヴァレンティノ」2025年春夏コレクション‘パヴィヨン デ フォリ’

メゾン ヴァレンティノ(Maison Valentino)は、フランス パリにて、クリエイティブ ディレクター アレッサンドロ・ミケーレによる初のコレクション、2025年春夏コレクション‘Pavillon des Folies(パヴィヨン デ フォリ)’を発表しました。

Creative Director Finle

私たちは常に制限にさらされている脆い生き物です。それは、自らの重みで粉々になった鏡の上をつま先立ちでそっと歩くよう。よろめいたり、転んだりする危険性を排除しては一歩も歩くことはできません。脆さを感じることなく息をすることもできません。逃げ場のない束の間の地平線において私たちは動き回り、そして不安定です。それが正確なところですが、それは私たちに一時的な側面の真の意味をもたらします。限られた時間ではなく、永遠によって定義されるとしたら、移ろいゆく儚さはどのような感覚をもたらすでしょうか?

そうであるからこそ、限られた命は「奪うのではなく、意味をもたらすことに貢献している」(ヴィクトール・フランクル)のです。非論理的な無限に浸るほど、私たちは本質的にそれに価値と一貫性をもたらすことができる何かを探し求め、この騒々しい世界に意義をもたらし、生命の神秘を体験する衝動に駆られます。

この視点において、美は束の間の、運命の不確定な性質から生じる苦痛を和らげる治療薬と言えるでしょう。私たちが人生と呼ぶ、‘パヴィヨン デ フォリ’を航海するための錨です。実際のところ、儚さや一貫性のなさからはほど遠い美は、私たちをそっと抱きしめて体を温め、安らぎをもたらします。その目的は癒し。美は儚さと現実の混乱をなだめてくれるのです。

そもそも美とは何でしょうか? テオフィル・ゴーティエが「真の美は無益である」と言ったように、それは必要とされるいかなる論理にも責任を持ちません。それでも美は、一見したところ無益です。私は花々のまばゆいばかりの色について考えます。その魅惑的な色合いは、私たちが知っているもっとも貴重で繊細な作業のひとつ、受粉を促す動機付けとなるのです。ハチは、味と美的な合理性を頼りに地球の遺伝学者としての非凡な任務を遂行するべく、美の断続的な探求で満たされたカラフルで迷路のような通り道をうねるように進んでいきます。

ミシェル・ド・モンテーニュは正しかったのかもしれません。「自然界に無用なものはない。無用そのものさえない」。私たちがそれを幸せを育て、増やすために使うのであればなおさらです。私たちは知っています。区別されていない無秩序な流れの中で美を構築、または見出すとき、歓喜という無意味さを忘れさせてくれるものの中で有頂天になったように気にさせられます。それは驚くべき豊かさの伝導者として振る舞いながら私たちの一体性に疑問を投げかける、掴みどころのない、感情を刺激する動きです。

私が美というとき、それは普遍的で独断的、規範的な神話を表すものではありません。むしろ新しい世界の意味を明らかにする何ものかを感じ、つながることができるユニークな能力であること。ものや生物といったすべてのつながりにおいて、エピファニーはすぐさま可視化されます。
アート作品を完成させたときや、自然の力に圧倒されたとき、そのような感覚は突如として現れます。それは言葉で表すことのできない光であり、乳を湛えた乳房のような神聖さ、細かな刺繍が施されたドレスのような壮麗さ、肉体に宿る魂のような長い余韻、無のような威厳、恋の相手を探し求めるホタル、湿った土の匂い、オーガンザラッフルの質感、図書館の奇跡、水彩の繊細な重なりなのです。

美は、マルティン・ハイデッガーがalētheia(αληθεια)と呼んだ真理を思い起こさせます。
突如として起きるその驚きにおいて、それは胸に火を灯し、大地をかき乱します。どれほど試みようとも、それは言葉で捉えられることを拒否し、だれもそれに正確な名前を付けることができません。夢見る者たちの究極的な癒しとして、美は「その力を通じて、人は物事の無力さを見ることができる」(エマヌエーレ・セヴェリーノ)。グレーの無意味さから私たちを守る光の突入、魔法のようなファルマコン、儚さの深遠を通じて私たちを導く香油。非常に細いクモの巣が、私たちを無の上に漂わせます。

@maisonvalentino
#PavillondesFolies